伶(れい) 人(じん の) 舞(まい)

江戸時代初期から中期頃(推定) 日本
「伶人舞」

宮廷の音楽として平安時代に隆盛した雅楽は、応仁の乱以降、京都の荒廃とともに多くの楽人たちを失ってすっかり衰退してしまった。この危機的状況を救ったのが京都の楽人のほかに天王寺(大阪)や南都(奈良)から楽人を加えて新たに結成した「三方(さんぽう)楽所(がくしょ)」である。この三方楽所の出現により再び雅楽は復興の兆しをみせる。江戸時代になると、泰平の世と徳川幕府の庇護のおかげで、雅楽は楽人や諸大名が行うほか、地方の藩校などでも教習されて広く一般にも普及した。経済的に豊かな藩主が三方楽人に入門することもあった。このように雅楽は江戸時代に再び盛んになり、平安期に次ぐ第二の隆盛期ともいわれている。

写真の絵巻物は、舞楽曲を舞う伶人の様子が描かれたもので、上・中・下の三巻にわたって全51曲が収められている。三巻を収納する桐箱の蓋上面には、「進上 伶人舞 三巻 尾張中納言」という墨書があり、尾張中納言に献上された品であることが窺える。製作者に関する手がかりは少ないが、その画風から土佐派の流れをくむ人物の作品で、雅楽が隆盛し始めた江戸時代初期から中期頃に描かれたものではないかと推測される。

尾張徳川家では、式楽である能楽とならんで雅楽も古くから盛んにおこなわれており、中でも初代藩主義直、2代光友、3代綱誠は音曲に造詣が深かったと伝えられている。特に父家康譲りの学問好きで知られる初代義直は、雅楽への関心も高く、3代将軍家光に楽箏を献上したり、真(ま)清田(すみだ)神社の雅楽の再興に尽力した人物でもある。

16代続いた歴代尾張藩主の中で「尾張中納言」と呼ばれた者は半数近くいたが、この絵巻物の献上先として可能性が高いのは、作品の年代などから推測すると2代光友(のちに権大納言)、3代綱誠あたりが有力ではないかと思われる。

(武蔵野音楽大学楽器博物館所蔵)